七ヶ浜町観光ガイド | 海とともに生きる町 七ヶ浜町

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学びたい

生涯学習センター -しょうがいがくしゅうせんたー-

 子供からお年寄りまで楽しく集い、学べる生涯学習の発信基地です。生涯学習センターは、生涯学習の推進と文化活動の拠点となっている施設で、中央公民館、老人福祉センター、野外活動センターからなる複合施設です。中央公民館正面1階ロビーは、生涯学習の情報コーナーとして開放しています。
また敷地内には仮設店舗『七の市商店街』もオープンし、連日賑わいをみせています。野外には、アスレチック、18ホールのパターゴルフ場やキャンプ場などがあります。

※野外活動センターは現在ご使用いただけません。

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鼻節神社 -はなぶしじんじゃ-

撮影スポット

 地区の旧家に残されている「鼻節大明神御縁起」によると、今から2400年ほど前の第6代孝安天皇(前392-前291)の時代に、猿田彦命(さるたひこののみこと)を祭神として花渕浜吼坊ヶ崎(こうぼうがさき)に勧請し創建されたと伝えられています。この神社は、多賀城を陸奥国の役所としていた頃に使われていた、国府厨印(こくふくりやのいん)が明治のはじめ神社修復の際に発見されたところです。

 また平安時代に、全国の神社を調べた古い記録の延喜式内神名帳(えんぎしきないじんみょうちょう)にも名前があります。大社(たいしゃ)と小社(しょうしゃ)に分けられていますが、名神大社(みょうじんたいしゃ)に属する位の高い由緒ある神社です。清少納言の『枕草子』や、『朝野群載』(ちょうやぐんさい)にも記録があり、これらによって朝廷の尊信を受け、民間の信仰がいかに厚かったかを知ることができます。

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薬師堂 -やくしどう-

撮影スポット

 薬師堂は、幅一間、奥行き約五間半の岩窟に半肉掘りの薬師像が刻まれています。七体あったうち三体が現存し、他は風化により消えかけています。これを本殿として屋根をかけ、旧河道に向いて拝殿が建っています。伝説によると宮城郡名の三薬師を慈覚大師(じかくだいし)が、海上安全を祈願するために一夜にして彫り上げ、そのできあがり時刻によってそれぞれ名付けたと伝えられています。

  • 「宵の薬師」岩切の東光寺裏山
  • 「夜中の薬師」利府の菅谷
  • 「夜明けの薬師」湊浜薬師堂

 湊浜には磨崖仏座像(薬師座像)があり、町歴史資料館で複製を見ることが出来ます。

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諏訪神社 -すわじんじゃ-

撮影スポット

 諏訪神社は、地区の鎮守神として家内や海上の安全・大漁・豊作・無病息災などの祈願をする人たちが多く、信仰を集めていました。祭日には参道の両側にのぼりが立ち並び、御輿がのぼりの中を通り抜けて海岸近くの集落を練り歩きました。また、祭神である健御名方富命(たけみなかたとみのみこと)は、相撲の起源にまつわる神であり、境内では奉納相撲が行われていたそうです。

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毘沙門堂 -びしゃもんどう-

撮影スポット

 松島大四観のひとつとして名高い「多聞山」の地に質素なたたずまいを見せています。本尊は全長六寸(約20cm)毘沙門天像(多聞天像)の黄金仏だと伝えられ、33年に一度開帳されます。最近では平成8年(1996)に11回目の開帳がされ、次回は平成41年(2029)に12回目の開帳がされる予定です。

 毎年12月13日に行われるお祭りで、参拝者には湯豆腐が振舞われ、食べると次の一年は風邪をひかないといわれています。地元区民の家々では、二つの餅を毘沙門堂に捧げ、別の参拝者の供えた餅を一つ持ち帰ります。このもちは縁起物とされ親戚一同を招き、家でこの餅を振る舞うことがならわしとなっています。

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七ヶ浜町歴史資料館 -しちがはまれきししりょうかん-

 大木囲貝塚の隣接地に建つ歴史資料館では、国史跡大木囲貝塚の出土品をはじめ、町内の遺跡や貝塚から出土した考古資料や漁具や農耕具など七ヶ浜の生活を伝える民俗資料を多数収蔵、展示しています。

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清海上人 -せいかいしょうにん-

 馬放島の砂浜を清海ノ浜(せいかいのはま)といい、その浜に岩窟(がんくつ)があります。今は砂に埋まり人の入れる余地もありませんが、かつては清海上人がここに座(ざ)して修行をおこなうと、前海を走る船脚(ふなあし)も止まったと言い伝えられています。清海上人の徳(とく)を慕(した)い、後世になって向田(むかいだ)に碑を立て、3月8日を祭日にしたといいます。

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大根明神 -おおねみょうじん-

 鼻節神社の南東海上約7キロの沖合い海底の岩礁推に「西の宮」「東の宮」と呼んだ二つの祠がありました。漁師たちが岩礁を「根」と呼ぶことから、大根明神の名がついたと思われます。
もともと鼻節神社は、大根岩礁と呼ばれる所にあったのが、貞観の大地震(869)の時、地盤が陥没し海中に沈んだために、花渕浜垂水山(たるみずやま)に移され、その後、現在の場所に移されました。そのため、大根明神は鼻節神社の奥の院であるともいわれています。

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吉田浜獅子舞 -町指定無形民俗文化財-

 塩釜神社の末社である吉田神社の奉納獅子舞で、その境内には海上安全を祈願した八大竜神がまつられており、毎年吉田神社御祭礼の日は、竜神講(りゅうじんこう)を組織し大漁祈願、家内安全、悪魔払いを祈願して吉田浜地区の家々を回り歩いてます。起源は不詳ですが、明治初期頃に地元漁民が石巻渡波方面から移入したと思われます。海の安全と大漁、帰りを待つ家族の健康を祈る気持ちが、掛け声に込められているといいます。

大木式土器

 「大木式土器」は大木囲貝塚からとった呼び名で、縄文時代前期・中期に東北南部を中心として広い地域で盛んに作られた縄文土器の総称です。1~10式に分類され、前期が1~6式、中期が7~10式に充てられています。最大の特徴は、大木8式の段階に見られる渦巻き文様です。大木式土器は設定から70年以上経過した現在も基準型式として利用されています。

東宮明神 -とうぐうみょうじん-

 塩釜神社の末社として古くからまつられてきた神社で、東宮という名は塩釜神社の東方を護(まも)る神として名づけられたと伝えられています。この場所は岬になっており、北西の方向に塩釜港と北東に松島湾の島々を眺望することができます。また、東宮明神がまつられていることから、この地は「明神崎」と呼ばれています。神社のかたわらに、伝説にのこる腰掛石と海中に紫石があります。

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笠岩堂 -かさいわどう-

 ご本尊は笠岩観世音といい、出羽三山から訪れた修験者、明海上人(めいかいしょうにん)をまつった小さなお堂です。その昔、修行のためにこの地を訪れた明海上人と正海上人がお亡くなりになった時、逆さまに埋葬するように遺言を残しましたが、区民はいかに遺言といえ、逆さまに埋葬することはお忍びなく、正しい形で埋葬しました。まもなく区民達の間で熱病が広がったので祈祷をしたところ、上人の遺言を守らなかったことが原因であると伝えられ、早速改葬すると病気はたちまちのうちになおったと伝えられています。その後、笠岩堂は風除けの神様として近郷近在(きんごうきんざい)に知れ渡り、祭日には参拝者が行列をなして参道を埋めつくしました。毎年旧暦2月8日の縁日の日にお堂で配られた祈祷符は、各家の入口に逆さまに貼る慣わしになっています。

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